「山の湯宿の開湯と手続き」
〜今に伝わる裏ばなし〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕
2.広く認められた温泉に
30数年後の正平元年~5年(1346年~1349年)浪人の遠藤某に手伝ってもらい、人格も良く隣に住みたいとの事で有無は歓迎。有無の事は「今薬師」と称せられ、かねがね、お上にも聞こえており、この機会に
有無・・・惣湯司(そうゆのつかさ)【惣門となのるべし】
遠藤某・・湯守(ゆもり)
として自由に温泉を開発して欲しい旨、命じられております。
康安元年(1361年)惣門死去(湯盛院)、お上より惣門も神として共々まつり置くように、更に御家人の宍戸某を宍戸惣蔵と名を改し相続人として老母を養うよう命ぜられ、更に、お上より伝馬人足を下し置かれ公式の湯役所を設けております。
惣門は康安元年(1361年)88才で死去。妻は貞治3年(1364年)95才で死去と記されてありますが、年令が不自然。正慶2年(1333年)5月鎌倉幕府が倒れ、延元3年(1338年)8月室町幕府開府と世の乱れの中で北条氏系の佐藤宗純の息子も山の温泉を主生活の場にしました。米沢地区の領主長井氏(鎌倉在住)は足利氏の協力者ですし、長井氏と軍事寄騎(グンジヨリキ)の関係にあった御家人の宍戸氏もスムーズに新政権に認められ、佐藤家の養子に成りました。が鎌倉の混乱時に息子が継いだ正式の届け出が記録に残らず、宗純が二人分の長さを生きていたように成ったと思われます。当家では間違いなく宗純改め有無を湯神として今も祀っております。
尚、御家人の意味は阿部猛著「鎌倉武士の世界」に、
(イ)未開の土地を私力で開発してその所有者となり
(ロ)その所有を鎌倉将軍の下文(クダシブミ)によって安堵されたもの
(出典は鎌倉期の書「沙未練書」)
とあり理解し易い文章なので引用させて頂きました。
当家は初代が奥州合戦後、源頼朝の御家人として鎌倉幕府に勤め、温泉を開湯し(6代目)「湯司」(ゆのつかさ)の下文を受け、更に室町幕府より「総湯司」の下文を受けております。更に、宍戸惣蔵が相続人として佐藤家を継ぐに当たり温泉利用者から税金受領も行える公式の湯役所設置の資格を得ております。(※3)。時の幕府の直属の家臣である御家人が自分の支配地で温泉を所有し、湯を神として祭り、人々への入浴の施しを公式に認めてもらい京都へも報告される事が「湯司」、「湯司」の命で管理を代行できる事を「湯守」(ゆもりと言うと宍戸家に代々伝わっております。「総湯司」(そうゆのつかさ)の意味は、祖父、父が共に若死にしましたので私に伝わりませんでしたが、私は「湯について絶対の責任を負って管理しなければならない人」の意に解しております。「湯司」は平安時代から有る言葉なので記述文書があればと思っております。
宍戸惣蔵は自領である下長井地区の土地の一部を、米沢地区領主長井氏(大江広元二男系)所有の李山の土地の一部と交換し、自宅付近に採地を広げて生活の足場を固めています。

源泉地蔵

薬師如来堂
3.「室町時代以降」へつづく