「近代国家への動きの中で白布高湯温泉」
〜上杉藩政の時代〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕

「近代国家への動きの中で白布高湯温泉」
〜上杉藩政の時代〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕

「近代国家への動きの中で白布高湯温泉」
〜上杉藩政の時代〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕

弘化3年(1846)白布高湯温泉全景
一、藩政期末の白布高湯
当温泉は置賜(米沢地方)、会津の国境、吾妻連峰にある山岳宗教吾妻権現と関連の温泉としての江戸時代の初期までと、米沢上杉家・会津松平家の親しい仲が幕末まで続いた時期と内容に違いはあっても正に両地区民に愛された温泉として存在してきました。例えば芭蕉生誕150年記念の句会掲額には両地区民半々位の人名が記されておりますし、東屋旅館の前庭にある芭蕉の句碑は会津関本卓呂名で嘉永元年(1848年)建立とあります。蕉風俳句が両地区で盛んだった事の証でもありますが。
幕末の世上騒乱時に米沢・会津両藩の武士が個人的に湯治をしておられ、鳥羽・伏見の戦いの米沢城下への第一報は当温泉より伝わったとの話まで残っております。会津藩士が会津若松城下からの早飛脚を受け、同宿の米沢藩士に知らせた為、急ぎ米沢城下に帰宅されての話です。その後、会津・米沢が敵対状態になった会津戦争時には、宍戸の宿を基地として米沢藩士20名程が、藩境の馬場谷地附近の間道の警備に努めています。
直江兼続が製造させ、銃身のみにして250年間宍戸の宿に保管させていた1000挺の鉄砲を完成品にして宍戸家より藩に届けた事が、「明治元辰年中御鉄砲小銃台木千挺御忠信仕候.........」の文章により知ることができます。
新政府転覆の罪で明治3年東京小塚原刑場の露と消えた米沢藩士雲井龍雄が、当温泉中の宿(現、中屋旅館)に潜み、宿の人に勉強を教えたりの逗留期を過ごした後、米沢藩士10名位で護送されて行ったと伝わり、中屋旅館には龍雄の真筆が遺っております。上杉家と連がり深い当温泉も戌辰の役当時は騒然としておりました。
尚、馬場谷地は直江兼続が湿地帯の端に藩境として杉を植えさせたと伝わり、分水嶺の山稜で標高も高く豪雪の地なのに現在も3代目の杉が残っております。同時期に植えた兄弟杉が当温泉地内に元気に立っており、400年が身近の話題になる温泉地でもあります。
最終話「文明開化の明治時代を迎えて」へつづく
「江戸時代の白布高湯温泉」
〜上杉藩政の時代〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕

「上杉家年譜」16代隆憲公が個人用に編集されたもの
二. 上杉家の入湯
度々の火災により宍戸家に残る藩主の入湯日記は6代宗憲公からですが、有名な上杉鷹山公(10代治憲公)は何度も足を運ばれ、大殿様(9代重定公)中殿様(治憲公)若殿様(11代治広公)の三公が交代で入湯された年もありました。特に寛政2年(1790年)40才の時には2週間も滞在され公直筆の入湯日記が上杉家に残っており、住民の山菜取りの内容や山行と名づけておられる日帰り登山の様子等、率直な感想を記された貴重な物です。上杉家の白布高湯入湯はあくまでも私的な湯治だった様で、近習筆による公式入湯日記は嘉永3年(1850年)の12代斉定公の時の物しか見つかっておりません。内容は「暁八つに御出発、御輿で七軒町まで来られて小休止、七つ笹野村まで松明を先に立て諸佛で小休止、笠松にて小休止、坂下茶屋前からは駕篭に乗られて龍田樋口宅に小休止、御食事の後御出発、平四郎渕で小休止、二丁目迄御宿?左衛門御出迎へ御案内、入口に代官以下が御待ち申し、無事御宿場。」又、帰りには伏嗅に到るまで御酒御肴を賜っており、
「一. 御酒御肴 一程 御宿 宍戸捴 左衛門
一. 金一両二分 御宿 宍戸捴 左衛門
一. 同二分 寝具及び薪代同人」
の記述もあり、当館は借り上げ別荘であったことから、宿賃が支払われていることが判ります。
享和3年(1803年)東町検断石田名助文書には、
「屋形様高湯御入湯(注:当館のこと。)に付出銭三貫二百五十文。相模様赤湯御入湯(注:赤湯温泉に別荘があった。)に付出銭四百六十六文。」との記述があり、領主の入湯時には城下の商人達の資金拠出があった事が判ります。
財政建て直しも順調に進んだ治広公以降は藩主御家族の来湯も多く、深山の自然に親しく接しられた様です。

白布西国三十三観音
最終章「近代国家への動きのなかで白布高湯温泉」へつづく
「江戸時代の白布高湯温泉」
〜上杉藩政の時代〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕

一. 上杉藩政の中での白布高湯温泉
突然の米沢移封で上杉家は大混乱でしたが、ようやく城下の武士の生活が落ち着き将軍徳川秀忠が江戸の上杉屋敷に「御成りの儀」が行われたのが慶長15年(1610年)12月下旬、町人町等の整備完了が慶長17年末(1612年)と云われております。白布高湯温泉が宿4軒のみの静かな山の温泉集落になったのもその頃です。
直江兼続ー元和5年(1619年)12月死去
上杉景勝公ー元和9年(1623年)3月死去
お船の方ー寛永14年(1637年)正月死去
は、上杉家にとって一時代の終わりを告げ、当白布高湯温泉も人々の手近な出入り自由の温泉に成りましたが、当温泉には其後更に一波乱。
鉄砲製造時の広範な山林伐採(燃料)は想像以上に山を弱らせており、寛永17年(1640年)の大規模水害の発生に始まり、延宝年間まで数回もの大水害に見舞われ、特に延宝6年(1678年)の大水害により太郎左衛門家は再建を断念、当温泉を去り、以降宿三軒となりました。
このような動きの中で、上杉家の深い配慮により寛永20年(1643年)宍戸家は湯役金(注:現在の入湯税に近いもの)の免除、及び他三軒の湯役金収受の永久権を授けられ、その湯役金を元手に関地区から白布高湯温泉迄の約7kmの道路整備を行う事が責務となり、大字関分・龍田ー高橋間は関地区の住民に、大字李山分、高橋ー温泉間は李山地区の住民に毎年出人足を願い、道路を確保することの藩令が下されております。当時の白布高湯温泉にとっては人々の入湯を容易にさせる素晴らしい話でしたし、宍戸家としては両地区には見返りとして労賃のほかに土地を共有地として寄付しての事でした。また、上杉家へは宍戸の植林を行った杉山を寄進しております。
上杉家に寛文4年(1664年)半知の15万石と成る事件が発生。藩政の種々の民政見直しの中で、延宝6年(1678年)村境の見直し、宝永5年(1708年)御林山の民間管理委託が行われ、特に宍戸家においては、吾妻権現祈祷所の廃止、山伏の強制移住、白布高湯地区の正徳5年(1715年)の関地区編入新地承認と大混乱を極め、更に享保3年(1718年)には、家族留守時の不審火による自宅の全焼火災と、正に泣きっ面に蜂。この時の火災で貴重な資料は殆ど焼失、自宅を旅館に移しています。
その頃、当主が石工と共に西国三十三観音を巡礼し、分霊をうけて享保14年(1729年)に、白布西国三十三観音を「来湯者及び地区住民の幾世の安らかなる事を祈願して」建立しています。
その後、当温泉で2度の火災発生有るも、その都度藩の絶大なご配慮により三軒の旅館の営業を続ける事が出来、来客の地域も上杉藩領の人、会津藩領の人が同数に近く、正に広域の人々に親しまれた温泉として「奥州三高湯の一つ」の名まで付けて愛されての江戸時代だったようです。
お客様より頂く1人当りの木賃銭は
寛延元年(1748年) 12文
宝暦3年(1753年) 16文
嘉永4年(1851年) 30文
文久3年(1863年) 40文
安永6年(1777年)の年間の白布高湯温泉の湯役金総額(当館を除く2軒)は永楽750匁と記録にあります。
二.「上杉家の入湯」につづく
「山の湯宿の開湯と手続き」
〜今に伝わる裏ばなし〜
白布温泉「東屋」第38代館主 宍戸 康裕
3.室町時代以降
鎌倉幕府が蒙古襲来以降の国内争乱を立て直せず苦しんでいる時期の温泉開湯となりましたが、当家の温泉は穏やかに推移したようです。米沢地区は同じ支配体制のまま、室町幕府時代に移りますが、隣地の伊達氏が長井氏の土地を押領し、天授元年(1380年)米沢地区の領主になります。宍戸家は当初、軍事寄騎として独立しておりましたが、伊達氏の勢力拡大の動きの中で徐々に温泉と宗教に活動を特化。足利幕府の下、当時衰微していた山岳宗教吾妻権現の米沢地区側の祈祷所の資格を得、山伏の協力者にも集まってもらい、本宅附近の外、温泉付近にも小さな祈祷所を設け活況を呈したと伝わります。そんな状態の動きの中で上杉家、直江氏支配時代へと継がることになります。この間、遠藤家には温泉の運営と管理に大変な協力をもらい、白布高湯温泉の名を後世まで残す事が出来たのでした。
第3章「江戸時代の白布高湯温泉 〜上杉藩政の時代〜」へつづく