箱根・芦之湯温泉の最近のブログ記事

「芦之湯の歴史と温泉」その4

 芦之湯温泉の現在は、涌出形態で自然源泉2本、揚湯泉源泉2本、蒸気井源泉2本の6源泉を有する。
源泉の泉質の特徴は大きく2つに区分出来、1つは涌泉と蒸気井造成温泉の単純硫化水素、2つにはボーリングの動力泉(2源泉)に
みられる石膏を主成分とするCa・Na・Mg−硫酸塩泉の炭酸水素塩泉である。
芦之湯地区での総湯量は毎分450リットル(21年度調べ)を旅館5施設で使用している。
この硫酸塩素・炭酸水疎塩素は箱根温泉の中で数少ない泉質である。
この狭い限定された地域で6源泉有、泉質も豊富で現在も涌泉を利用している・きのくにや。
中でも松坂屋本店の動力源泉は硫化水素を含有し、源泉の色は黄緑色を呈している。
これらの泉質は、保湿効果が大きく、降圧作用もある。
また、湯の花沢では明治期に「ゆのはな」(硫黄の温泉沈殿物)を日本で初めて採取し販売したことで知られる。
(以上町温泉班資料より)
 私が小・中学生の頃、年上の人達と湯の花沢の野天風呂へ入りに行った。この野天風呂は"大岩をくり抜いた"もので、日本で初めての
野天風呂だと聞いたことを覚えている。
箱根山の山頂には、日本で最初であろう......と言うものが、"3つもある"。

   1つは、小桶谷三河屋で"蒸気井の造成"

   2つ目は、湯の花沢の"ゆのはな"の販売

   3つ目は、湯の花沢の"大岩の野天風呂"

 写真左側は那須温泉販売の"ゆのはな"右側は本店自家泉より採取の"ゆのはな"(上のビニール袋(3袋)をカラーパックに入れて販売)
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「芦之湯の歴史と温泉」その3

惣湯から分配枡へ湯が集められ<当時、芦之湯の自然涌出泉<黄金湯・底無湯など>(今でいう集中管理)の惣湯を分配することになり、高技術といわれる「分配枡」から各湯宿へ給湯する形となった。(当時の惣湯は今の銭湯の様なもので、宿でいうと大風呂が、この惣湯に当たり、当時、内湯といったのが今の施設の大風呂、現在の内湯とは客室に設置されている風呂場の事を言う様だ)
 芦之湯温泉の当時の「分配枡」は専門家の話では、非常に高度な技術であり(芦の湖から静岡深良への箱根用水(1280m<両側から掘り出して高低差1m>)・<寛文6年着工・完成1671年(寛文11年)>、当時の土木工事や測量技術の高さがうかがい知れる)、この分配枡の技術もそれに匹敵する非常に優れた技術が施されている。凄い点は各湯宿への風呂の容積に合わせ、給湯量が分けられることだと言っておられた。正に現在の集中管理である。
 現在の芦之湯地区の温泉(含湯の花沢温泉)について、古く「七湯の枝折」に「ここの湯は五味(多種)で、箱根の温泉の中でも主(最高)」と賛辞され紹介されている。
(以下は町環境整備部温泉班調べ)

「芦之湯の歴史と温泉」その2

神奈川県箱根町 松坂屋本店 主人 松坂宣彦


 惣湯の入浴(利用)方法にもいくつかあった。一般には男女が浴室を共にする"混浴"であった。また場合によって"幕湯・留湯"の方法もあり、幕湯=他人を入れず入り口に湯宿名の入った"のれん"をかけて借り切る方法。留湯=湯治滞在中浴室を借りきる(留湯利用者は大名・豪商など特殊な人々に限られた様である)方法。
 混浴!いい〜な!!(昨今また混浴が出来だして来たと言う。うれしい事だ......)。
 次頁の「相洲芦ノ湯図」の左側を見て頂だくと、この図の頃は湯宿と思われる建物が"長屋"の様に描かれている。江戸寛文2年(1662年)以降に数十年かけて湯宿が6軒となったことから、この長屋が後に分割されて、6軒の湯宿になったのか?、大いに気になる。前回、この「相洲芦ノ湯図」の年代が不詳と記したが、上図の長屋と思われる建物について何時頃の年代の図なのか、建物の形態ともどもこの芦之湯図の年代を調べてみたい。(岩崎氏も生涯学習課でも解らない)
 湯治客は入浴利用に惣湯へ行ったが、何時頃に惣湯から、各湯宿へ内湯として給湯されたのか定かではない。『分配枡』が造られた。

「芦之湯の歴史と温泉」その1

神奈川県箱根町 松坂屋本店 主人 松坂宣彦

鎌倉時代の「春の深山路」--<あしのうみのゆ>「東関紀行」には<芦の湖>と共に"あしのうみ"と記されている。紀行の<芦の湖>は現在の芦ノ湖とは違い芦之湯の古の様子も記したものである。
 「春の深山路」には「あしのうみのゆとて温泉もあり、いかさまにもふしぎおほし」と記されているところから見て、芦之湯はこの頃からすでに"湯治場"として存在していたのだろう。熊野信仰の広まりの中で、箱根権現参詣の"道者"たちに温泉のある"宿坊"として利用されていたのではなかろうか、「権現湯」と言われ神聖視されて一般人の入浴は許されなかったこと、格式の高い温泉といわれた芦之湯温泉であったことからして......。
 「あしのうみ」であった芦之湯、満々と水を湛えていた芦之湯を開拓、「あしのうみ」と呼ばれた湿原の水を早川と須雲川の二方に落して干拓を完成させた。史料から鎌倉後期には、すでに温泉が涌いていたことがうかがえる。芦之湯が"湯治場"として装いを整えたのは、江戸寛文期である。
 東光庵の熊野堂の熊野は音読みで、「ゆや=湯屋」につながり、広重画の「箱根七湯図会」には『惣湯(総湯)』が描かれている。
 寛文2年(1662)以降には数十年かけて、6軒の湯宿となった。いずれの湯宿も宿に浴場はなく、湯治客は「惣湯」と言われる"共同浴場"を利用した。

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「芦之湯の歴史と温泉」

神奈川県箱根町 松坂屋本店 主人 松坂宣彦


この東光庵には歴代の庵主が居た。現在の庵主は「元内閣総理大臣中曽根康弘先生」。
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芦之湯 東光庵 史跡の全景

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歴代庵主の墓石

また東光庵跡には多くの句歌碑が建立されている。一部を紹介すると
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多くの碑の中でも、「蘆湯神遊碑」は、江戸中期の峰山医宮(薬師)がその専門的見地から撰文した"庵跡中最古の碑"で、当芦之湯温泉の効験にふれ「......欲すれば病直り命延びる...とこしえにこの霊泉、名山を護る」と記され、芦之湯の"湯"の素晴らしいことか......!。

 また東光庵には「蹴鞠を楽しむ"まりバ"」があった。(以下は図を参照)
町郷土家岩崎宗純(故人)著「街道と温泉秘話」より引用すると、「マリバ(球場)の存在」は湯治場芦之湯の右横手に「熊野杜」・「熊野堂」が措かれている。注目されるのはその下に広場があり「まりバ」と言う記載があること、まり場とは「毬場」蹴毬を楽しむ場所、平安後期から鎌倉時代にかけて、貴族や上級武士の間で大流行した。この様な競技場が何故芦之湯の東光庵にあったのか、資料はほとんどないが、本図<相洲芦ノ湯図>(年代不詳)での紹介がはじめてである。七湯の枝折にも一言も触れていない、貴重な資料である。確信はもてないが、小田原北条氏で流行ったという事実から、この"まりバ"は北条氏の流れを汲むものではなかろうか。
 また、「蹴鞠」と日本文化」(蹴鞠の会会長・信州谷口彬雄教授)からも一部を引用すると、「蹴鞠」それは王朝時代の貴族の優雅な遊びで、源氏物語にも蹴鞠をする見事な足さばきが描かれている。蹴鞠の文化は、820年ほど前に「蹴鞠宗家」が設立された。その後400年ほど前から、茶道宗家・花道宗家など各種の宗家が設立、日本古来の文化が発展をしたとされている。
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相洲芦ノ湖図・郷土史家 岩崎宗純氏所蔵

 矢口教授に上記の図をお見せした。この「相洲芦ノ湯図」は元禄期と相定され、木版墨摺の図である。「まりバ」と言う文字がはっきり読み取れ、大変貴重な"図"と述べている。上記の「相洲芦ノ湯図」の描かれた年号が解らないのが残念である......と。

 原稿提出後、別の所に置いてあった父の資料の箱の中に"芦之湯の名称"の資料が出て来た。万葉歌に「安思我里の湯」と詠まれていたとある。"あしかり"は芦刈で地番の名である。記述の他に「芦刈の湯」や「足野湯」の文学も使われていた様だ。

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